大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和56年(オ)903号 判決

上告人

甲野四郎

上告人

甲野太郎

上告人

甲野花子

右三名訴訟代理人

伊藤和尚

被上告人

乙野雪子

右訴訟代理人

米原克彦

外二名

被拘束者

乙野めぐみ

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人伊藤和尚の上告理由第一点について

記録に現われた本件審理の経過に照らせば、原判決の所論のような違法があるとは認められない。論旨は、採用することができない。

同第二点及び第三点について

判旨原審の適法確定した事実関係のもとにおいて、上告人らが被拘束者を監護する行為が人身保護法及び人身保護規則にいう拘束にあたり、かつ、上告人宇野四郎が被拘束者を拘束しているとした原審の判断は、正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に基づいて原判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。

同第四点について

原審が適法に確定した事実関係のもとにおいては、親権者である被上告人に対し被拘束者を引き渡すことが明らかに被拘束者の幸福に反するものとは認められないから、上告人らの被拘束者に対する拘束が権限なくされていることが顕著であるとし、被上告人は上告人らに対し人身保護法により被拘束者の引渡しを請求することができるとした原審の判断は、正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の認定に沿わない事実又は独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(中村治朗 団藤重光 藤﨑萬里 本山亨 谷口正孝)

上告代理人伊藤和尚の上告理由

第一点 人身保護法第一四条違反

一、人身保護法第一四条は被拘束者の為に国選代理人制度を設置し、裁判所が弁護士の中から国選代理人を選任すべき旨定めている。この制度の立法趣旨は、国選代理人をして被拘束者の独自の利益を代弁せしめることにあると解せられる。従つて人身保護請求事件を担当する裁判所としては、右制度の立法趣旨から、国選代理人をして、事件に関する事実上の、及び法律上の主張を充分に述べさせ、独自の攻撃防禦方法を構じさせて、被拘束者の立場や意思を訴訟に反映せしめるよう、積極的に釈明権を行使すべき職責があるものと云うべきである。

二、然るに原審は、被拘束者の為に大阪弁護士会所属の入江正信弁護士を国選代理人に選任したのであるが、同弁護士に対して、被拘束者こずえの現在及び将来の幸福の為には、現状維持がよいのか、被上告人に被拘束者を引渡した方がよいのか、と云う点につき事実上の、及び法律上の主張を尽すよう、又独自の攻撃防禦方法を構ずるよう要求せず、もつて前記職責を果さなかつたものである。

三、実際国選代理人である入江正信弁護士は、被拘束者と全然面接していないし、その現実の暮し振りを見聞きしていない。そして事実上及び法律上の主張を一切論じていないし独自の攻撃防禦方法を構じていない。このことは原判決「当事者の主張」の欄及び「疏明関係」の欄に被拘束人の主張や被拘束人の疏明方法の記載が一切ないこと、証人尋問調書上国選代理人の尋問行為が一切ないこと、一件記録上も出頭者欄はともかく、国選代理人の陳述や申立、意見が一切ないことから明白である。

四、かくては人身保護法第一四条の国選代理人制度の前記立法趣旨は全く活用されなかつた。被拘束者の為に、国選代理人は附与せられなかつたに等しい。かかる事態を招来した原審は人身保護法第一四条に違反したとの批難を免かれない。被拘束者の置かれている立場や意思を、国選代理人が充分に訴訟に反映せしめておれば、判決の結論が変わつていたかも知れない。従つて原審は人身保護法第一四条に違反し、その違反は判決の結論に影響を与える性質のものと解せられるので、原判決はこの点において破棄を免かれない。

第二点 被拘束者の自由意思否定の違法

一、被拘束者は昭和五〇年八月二三日生れであつて、昭和五六年八月二三日をもつて満六才になる少女である。若し被拘束者がその自由意思に基づき、上告人高森幸文、同朝子方に居住するものであるとすれば、最早その居住は「拘束」とは云い得ず、本訴請求は請求の要件なきものとして却下若しくは棄却を免かれない。上告人等代理人は被拘束者は自由意思に基づき前記拘束者両名方に居住するものであり、「拘束」ではないと思料する。

二、自由意思と云つても、さまざまな局面におけるいろいろな度合のものがある。哲学的・思弁的レヴェルにおける自由意思はともかくとして、取引法上の行為能力や身分法上の行為能力の基礎を為す意味における自由意思が六才の少女に具備されていないことも、認めざるを得ないだろう。

三、然しながら、動物的・本能的挙動に密着しつつも、ないしはこれを基礎としつつも、自己の行動を律すると云うレヴェルの自由意思の存在は一般的に肯認されなくてはならない。原判決は理由第三の一の1の(三)において「被拘束者も右拘束者夫婦を『お父さんお母さん』と呼んで慕い、同拘束者らの子供らにも兄弟同様に慣れ親しんでつつがなく元気に成育している」と認定しているが、かかる事実は、被拘束者が前記レヴェルの自由意思に基づき自己の居住すべき家や自己の庇護者を選択していることを当然の前提とするものである。

四、少女は日暮時、遊び疲れたら家に帰る。他人の家にではなく「お父さん、お母さん」の居る家に帰る。彼女の自由意思の世界はここを中心として拡大しつつある。被拘束者は動物的本能の世界から明らかに一歩出ている。かように、被拘束者に自由意思があり、その選択が法的保護の対象たるべきは自明であると思料する。

五、従つて原判決は拘束者の自由意思による居住を「拘束」と曲解した違法を有し、この違法が判決の結論に影響を与えることは明らかであるから、この点においても原判決は破棄を免かれない。

第三点 「拘束」概念の解釈・適用の誤り

一、原審は上告人高森八四郎が被拘束者を「拘束」していると云う。然しよく考えてみると、同上告人はこずえを「拘束」していない。こずえの「身体の自由を拘束」(人身保護法第二条)している者ではない。

二、人身保護法の「拘束」概念は、被拘束者に対する現実的・具体的支配なのであつて、同上告人のようにこずえが上告人夫婦方に居住することを諸般の事情から望ましいと考え、積極的に解しているだけであつて、自らは大阪に居住し、北海道におけるこずえを現実的・具体的に支配せず、又物理的にも支配し得ない状況にある者は「拘束者」ではないし、「拘束」もないことになる。

三、人身保護法は裁判所に、請求に理由あるときは被拘束者を釈放し請求者に引渡すべきことを命じているから、現実的・具体的支配なき上告人高森八四郎に釈放や引渡を命ずることは無意味且つ不可能である。又直截に現実的・具体的支配ある者に釈放や引渡を命ずれば足りるのである。

四、従つて原判決は拘束概念の解釈・適用を誤つた違法を犯し、現実的・具体的支配なき上告人甲野四郎がこずえを拘束しているとしてしまつたのである。この拘束概念は、人身保護事件の手続終結時を基準として判断さるべきものであること論をまたないが、一件記録上明白であるように、同上告人はこの人身保護事件の手続開始から終結に至るまで、一切こずえを拘束していなかつたのである。

原判決の拘束概念の解釈・適用の誤りが判決の結論に影響を与える性質のものであることは云う迄もないから、この点においても原判決は破棄を免かれない。

第四点 「顕著な違法性」判断の誤り

一、顕著な違法性と云う法的概念は、違法性を普通の違法性と悪質の度合が極端に高い違法性を区別して後者を指すという法論理的なわく組である。

二、然るに原判決は、

(1) 被上告人が協議離婚の際、親権者を上告人甲野四郎としたことを、ともあれ肯定し(逆から云えば、離婚したさに被上告人がこずえを放棄したことを肯認したことになる。)たこと(理由第三の一の1の(一)参照)。

(2) 被上告人は協議離婚から現在まで一貫してこずえをみずからの手で監護・養育することを希望していたのに、自己の信念を貫くことをせず、自己を非親権者とした信念のない女であること(理由第三の一の1の(一)参照)。

(3) 被上告人は現に勤務中で拘束者の受入態勢を有せず、将来は無職者となつて自己の父親やその妻に寄生しなければ経済的自立もあり得ないこと(理由第三の一の1の(一)参照)。

を各認めている。このような理解は決して原判決の右参照の曲解でもなければ誤解でもなく、本質的に同じ意味を別の表現方法を用いて表現したにすぎないことは、少しく意味論を体得した者にとつては明白である。更に又原判決は

(1) 上告人甲野四郎がこずえと共に困難なドイツ留学生活を立派に耐えたこと(参照箇所は前記に同じ。(2)(3)も同様)。

(2) 同上告人が関西大学法学部助教授の職にあり、従つて経済的自立も推認されること。

(3) 他人の(例えば保育園、小学校、お手伝さん、あるいは後妻の)協力があればこずえの監護、養育は(右(1)を認定している以上)充分可能であることが容易にうかがい知れること。

を各認めるに足りる判示方法を用いている。ちなみに「他人の協力なければこずえの養育は困難」とする論旨は表現こそ違え、被上告人にとつても同一であることを知るべきである。

三、更に又原判決は

(1) 理由第三の一の2、3において、被上告人が必ずしも情報豊かな理想的な母親ではないにしても、こずえにとつて不相当な母親と認めるに足りるほどの疏明はないと論じ、同女が情愛豊かな理想的な母親でない可能性があり、こずえの幸福にとつて同女が相当かどうか積極的には判示していないこと。

(2) 二年八ケ月余(これは現時点で云えばこずえの人生の半分であり、前の半分は無意識に近いもの、後の半分は自由意思形成の激しいものである。)の間上告人夫婦のもとで元気に成育しつつあるこずえを被上告人に渡すことは、こずえの心情に不安動揺を与え――いかにも生木をさくようで――好しくないこと。

(3) 被拘束者が幼児期にあることを考えれば、被上告人の愛情(の有無)、今後の監護養育の方法(の良さ、悪さ)次第によつては、やがて好ましい母子関係の形成も十分可能なことと思料されるし、逆に最悪の母子関係の形成も十分可能なことと思料されること(要するに原判決はここにおいて、事態がうまく行けば、うまく行くだろうと云うタウトロギーを述べているのであるから、同じウエイトをもつて事態がまづく行けばまづく行くだろうとも云える。)。

を各判示している。

四、かかる認定・判示であれば顕著な違法性なぞあり得る訳がない。それだけではない。上告人等は上告人甲野四郎と被上告人間に前者が後者に一〇〇〇万円を支払う、そしてこずえの監護・養育は前者にまかせる内容の和解が大すじにおいて成立しており、細部の詰めを残すのみになつているにすぎない旨主張し、これに副うテープレコーダーの筆写を書証として提出しておいた。これに対し原審裁判は何ら的確な証拠判断を示していない。かかる事実があれば顕著な違法性なぞ認めるに由ないのにかかわらず、これを肯定した原判決は顕著な「違法性」判断を誤つたものとして破棄を免かれない。

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